昭和42年03月20日 夜の御理解
おかげを頂いて、有り難いという事を分からして頂くのは、おかげを頂くから、まあ有り難いのでございますけれども。そのおかげが、どういうおかげでなからなければならないと、又、それを、目指さなければならないかと言うこと。それは私、いつ、どんな場合でも、平静心を欠くことが要らんということだと思う。どんな場合でも、平静心を欠かさんですむ、おかげが受けられる信心を段々、させて貰い。
生きた神様の働きというものを、分からして頂くようになればなるほどに、事の事態が右であろうが、左であろうが、それを、おかげとして頂くことが出来る。そこにあの、信心の値打というか、有り難さというか、私は、あると思うんです。ところが、私共に、都合の良いことは有り難いんだけれども、思いがけない事、それも、難儀なことであったり、どうでもおかげを頂かなければならんと思うておったのが。
どうでも自分の思うようにはならなかったりと。と言う様な時にです、私共は、どういうような姿勢をもっておったら、平静心を失わんですむか。いつも有り難い。いわゆる、和賀心である事が、和らぎ喜ぶ心ですね。それを取り外さんですむかと。生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にありと。そう私共は、いつも心の中に念じておるのでございますけれども。なかなか、その和賀心が欠けてしまう。
どこにそういう原因があるかと。私は思うのですね。本当にこの、おかげを受けて、あれやらこれやら成就して参りますと、思いもかけないおかげを受けたと言うような時の、お礼の事がですね。私共は、こう、例えて、ここの事を申しますなら、こうした見事なお広前が、ほとんど成就になりましたし。ここでこうやって御用さして頂くようになりますと。どこを見ても、ここを見ても、勿体ないものばかり。
その勿体ないものばかりが、勿体ないものばかりと、こう言っておって、私共、調子に乗り過ぎておるような事はなかろうかと。私は、今日は、ふっとその、昼、ここ下がらして頂く時、そんな事に気付かせて頂いた。あまりにおかげを頂き過ぎて、おかげを頂いた、おかげを頂いたという、そのおかげを受けたということだけで、そのおかげを、おかげのおかげの調子に乗り過ぎておる様な事はなかろうかと。
言うなら、おかげに甘えておる様な事はなかろうかと。そんなことを思わして頂いたら、途端に心が暗うなって来た。おかげを頂いて、心が、暗うなるという事は可笑しいんですけれども。そこから、結局、思えば思うほど、自分の信心も出来ておらんのにということになり、まあ、それから、家内が心配して、どうか先生、あるとじゃないですかと言うて、その、聞かれるぐらいに。
私は、いつもかつも、今日は、それからはもう、どこにおってもお詫びし続けさせて頂いた。これは私が、その気でおりましても、ほんなら、家族のもの、又は、ここの主だった方達の場合でもです。はあ、「でけたでけた」だけではなくてですね。そういう調子に乗り過ぎておる様なものが、その反動が、このように淋しゅうなるのじゃなかろうかと。ですから、ここんところをその。
甘木の初代なんかは、家族の者が信心が出来んから、本当に神様に対して相すまん、お粗末御無礼なことばっかり致しておりますからと。その御詫びのしるしに徹夜で、ご結界に奉仕をし抜かれるような事が、度々あったという事でございます。お詫びのしるしに、御結界で夜通しの御奉仕をなさるということだそうです。まあそんな、私共は、尊いものじゃないのですけれども、何かそんな気持ちでおらして頂いてですね。
お詫びさせて頂いておりますとですね、何とはなしに心が平静心。和ぎ喜ぶそういう心が私の心の中に、いっぱいこう頂けてくるような感じがする。ですから私共が本当におかげを受けたという時にですね。本当に心の底から喜びのお礼の信心が出来ておるかどうかという事がですね。問題なんですただお礼参りしたからそれでよいと。先程今そこに参ってきております、騒ぎよった子供が、あれは深町つぁんの長男です。
ちょうど咋年の今日が、あの子がこの世に出てくるか出てこないかという、瀬戸際だったんです。もう難産も難産、医者はとうとう深町つぁんを呼びにやりましてね。そしてこりゃ、折角こうやってなんだけれども、母親の命には替えられんから、子供だけは切って出すとこう。それでその、すぐにここにお願いにみえたんです。それで神様そのままおかげを受けたがよかろうと。
それでその深町つぁんは、とにかく医者にもう、それこそお医者を拝むようにしてから、どうとか二人とも取り留めて欲しいと言うて、お願いをしてからここへ椛目に参ってきた。私はちょうどどこへか出掛けておる時に参って来ました。それで深町釣らんあんた、今日はここで、あっちから生まれたと言うて、電話がかかって来るまで、ここにあんたおりなさい。ここでひとつ御祈念しよりなさい。
私達は今から用で出ていきよるから。と言い置いて私は出ました。それから椛目のお広前で一生懸命御祈念なさったんですね。もうそれこそあん時のことをいろいろ、もうとにかくここで拝んでおる手がはずれんぐらいに、一生懸命拝んだ訳ですね一心に。拝んでも拝んでも心に、やっぱ不安があるもんですから。私が居れと言うたけれどもとにかくもう一遍病院に行ってみなきゃ安心がいかんもんですから、病院に又行かれた。
そして本当にお医者さんを神様と思うて拝んだと、あん時言うておられます。もうそれからですね。お医者を拝んだという、それからもうすぐそれこそ軽いお産でした。母子ともそして皆さんああいう様な、丸々としたおかげを頂いてからおります。もう本当にいわば名前を「みつよし」と頂いた。「光の良」と頂いたんですけど。本当にこの世に出てくるか。もしあれが信心がなかったならば、母親の命にはかえられんから。
やはり子供をいわば手を切り、足を切りして出したに違いないのです。おかげを頂いてからそれから、( )二人の夫婦の信心も、段々出来るようになりそして又この5月には次の子を頂く様なおかげまで頂いておる。だから私はこの願うということもです。やはり一心に願うということ。やはりわが心に神がござるからとこう仰る。とにかく一心を立てて一生懸命に願わして貰う。私は今日はある方のお届けをさして頂いた。
本当に思いもかけない、いわゆる難儀な問題なんです。順調におかげを頂いておるのですけれども。がっかりするような問題なんんです。それで私はその方に申しました。親子で参ってまいりましたから二人に申しました。がっかりせんで元気を出しなさい。そしてからどうぞ自分の胸に手を置いてから、まずお詫びをさせて頂くことを気付かせて頂きなさい。一生懸命な、お詫びをさして頂きよる。自分の思い様にならん。
自分の意のままにならん。いや意のままどころか思いもかけない、難儀な事態になってくるという時にはね。もうお詫びするよりほかにない。不思議にお詫びしよるとね心が平静になってくる。心が有難うなってくる。ですから心が言うならば暗くなるようなと時にはですね。一生懸命お詫びするよりほかにないです。今日も私の午後の場合も、心が暗くなる。ですから、一生懸命お詫びさして頂きよったら。
お詫び自体お詫びそのものは、今でも続けておりますけれどもです。そのそこに有難いものが湧いてくる。いわゆる和ぎ喜ぶ心が湧いてくる。誰でも自分の思う様にならない時なんかはやっぱり心が、目の前が真っ暗くなる様なだけでなく、自分の心までが真っ暗うなってくるのです。ですからそういう時にですね。いくら拝んだっちゃ同じ事。信心しとったっちゃ同じじゃないかと言う様な事ではおかげは受けられません。
そういう時ほど、、いよいよ、自分というものを振り返えらせて貰い、自分の日頃の信心というものを思うてみてです、本当に心の底から、詫びて詫びて詫び抜かして頂きよりますとです、そういう事態が、目の前が真っ暗うなるような問題であっても、そこに、和ぎ喜ぶ心を失わんですむ。いや和ぎ喜ぶ心が湧いて来る。自分の思う様な、いや思い以上のおかげを受けたい時にはです。本当に神様にお礼を言いよるけれども。
それがどうも、上滑りなお礼になっておる様なことでは、自分の心の中に、いよいよ、ただ、ありがたか、ありがたかと言うておるだけでは、ほんなもんじゃない。心の底から湧いてくるような喜びというものがです、頂けれる様なおかげを、受けておるなら受けておるほどにです、そういう心に頂けるような、私は、お礼が出来る信心にならなければいけんと思う。お礼、お詫び、願いと、祈りの内容をそう言うておられます。
ですから、どちらに致しましても、詫びても願うても、又は、お礼を申し上げても、心から湧いてくる喜びを頂けるような詫びであり、お礼であり、願いでなかならければならんと言う風に思うですね。不思議なんですよ。ですから、日頃、自分というものを見極める事が信心だと言われるように、しっかり自分というものを見極めておきませんとです、これだけ信心するのに、という様なことになって参ります。
特に私は、自分の心が暗うなるような時にです、今日、私が体験させて頂いとります様に、心が暗くなるんですけれども。そこから、和ぎ喜ぶ心というか、平静心というか、本当に心が暗うなる様なことでなしに、感じるおかげを頂いたおかげで、自分の心の中に、そうした和ぎ喜ぶ心を頂くことが出来る。信心とは、だから有難いのだということです。本当に夢にも思わなかった様なおかげを受けられるということも事実ならです。信心さして頂きよっても、自分の思う様にはならん。
右と願や左。左と願や右という様な場合でもです。もちろん、願いもしなければならんけれども。願うという事と同時にです。そういう時に、詫びて詫びて詫びて抜かせて頂く。「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」という様な難儀な時です、どうしてじゃろうかと、ただ、じっと手を見ると言ったような事じゃなくてです、じっと自分自身の心の上のことを思うてみるのです。そすと成程おかげの頂けん筈だ、心が真っ暗うなるような事が起こってくる筈だと言う事になってくるのです。
そこから、詫びて詫びて詫びぬかせて頂く所にです。その詫びが神様に通う印に、そのこと事態は、目の前が暗うなるようなことでありましても、心が暗うなるような事でありましても、その心の底からです。和ぎ喜ぶ心というか、平静心というか、何とはなしに信心頂いておる有難さというものが湧いてくるのです。いつの場合でも、どんな場合でも、平静心を失わなんですむ。和ぎ喜ぶ心を願わして頂いておる。明けても暮れても、そのことを心の中に願わして頂いておるのでございますけれども。
いざ様々な問題に直面致しますと、それが消えてしまう様な事ではなりません。消えかかろうとするような時です、私共は本気で詫びていく。そこから私は信心を頂いておるという事は有難いことだなこういう様な場合でも、こういう平静でおれれるこういう様な場合でも、心の底から信心の喜びが湧いてくるという様なおかげを頂いてこそ、初めて信心を頂いておる有難さということが言えるんじゃなかろうかという風に思うですね。
どうぞ。